果たしてアートとまちづくりは協働できるのか? ラウンドテーブルのイベント参加レポート

阿波座

enocoで開催されたブレーカープロジェクト主催のラウンドテーブル「アート×まちづくり -他領域との連携・協働の可能性-」に参加してきました。

ゲストは港まちづくり協議会の古橋敬一さんと吉田有里さん、そしてアーティストのきむらとしろうじんじんさんと西尾美也さんで、司会はブレーカープロジェクトの雨森信さんでした。

以下は僕のオボロげなメモです。記憶違いでしたらご指摘ください。

それぞれの活動

みなとまちづくり協議会

み(ん)なとまちで なにする?

古橋さん
2013年ごろにつくったキャッチコピー。コンセプトが必要だと2008年からずっと言い続けていた。

ビジョンブック

・みなとまちBOSAI
幼稚園児たちが訓練している。先生たちは毎月登っているので教えている先生たちが飽きちゃっている。若い人たちは地域の訓練には来ない。

・みなとまちガーデンプロジェクト

・みなとイルミナート

吉田さん
横浜のアートセンターで横浜トリエンナーレなど。その後、愛知トリエンナーレ。長者町。愛知県の学芸員だけでは回せない。愛知に呼んでもらった。3年に一度、3ヶ月だけのお祭り。終わってしまうと解散。アートイベントの開催や見どころを紹介するツアーを企画とビジョンブックに書いてあった。

古橋さん
誤解も含めて「僕がやってきたことといっしょだ」と思った。プレゼンしたり口説いたり。コミュニケーションがベースになっているし。

吉田さん
「いや、まちづくりじゃないです」と言って。現場がまちだったけれど、まちのためにと思ったことはなかった。いっしょですね、と言えない自分がいて、すごい疑問に思った時期がありました。

お祭りの手伝いをしたり。まちづくりのチームが考えていることもわかって。ファシリテーションとディレクションはやっぱり違うなと感じた。

MAT, Nagoya

名古屋の港まちをフィールドにしたアートプログラム「Minatomachi Art Table, Nagoya(MAT, Nagoya)」

まちで考える、まちで受け入れる

アートそのものは、まちを変えるためには存在していません。

アートの本質は、既存の価値観にとらわれることなく、独自の視点をもってものごとに向き合い、それらの新たな意味や存在意義を問い続けることです。アーティストがこのまちを訪れ、関わることで、これまで見えていなかった風景や、時にはまちの問題や課題にさえも、気づかされるでしょう。

アーティストやアートがもたらす気づきや想像、アートそのものの存在をまちが受け入れることで、異なった価値観や他者を受け入れてきたこの港まちの多様性が、さらに広がることを期待します。

『MAT, Nagoya』はアートを軸としたクリエイティブな視点が、このまちにとってさらなる豊かさと出会うためのきっかけになるよう取り組みます。

港まちポットラックビル

L PACK. コーヒーを飲む風景をつくる

空き家再生プロジェクト wake up! project
アッセンブリッジ・ナゴヤ│Assembridge NAGOYA

音楽と美術の両方をかけあわせたプログラム。5年間続くプロジェクト。水族館でコンサートしたり、8人しか入れない居酒屋で演奏したり。

きむらとしろうじんじんさん

えずこ野点2016

土地の方たちといっしょに場をつくるという活動をされている。珍しくドキュメントが残った。

西尾美也さん

西尾工作所ナイロビ支部

アラカワアフリカ4
form on words

Form on Words: Document – あなたの「ことば」からつくられる衣服 – CAMPFIRE(キャンプファイヤー)
言葉のかたち工房

kioku手芸館「たんす」

NISHINARI YOSHIO

QAディスカッション

気になったやりとりだけメモしています。

古橋さん
なぜまちの中であえて、活動しようとするのか。

西尾さん
時代の流れがどうだというのはあんまり関係なくて。自分の思いを表現したい。方法の先行事例がない。自分は何をやりたいんだろう。近い分野ではワークショップやアートプロジェク。、共通しているのは、作り手と教え手が返還されることがしたい。だからワークショップしたり、服を解体したり。こちらから出かけて見せに行く。

じんじんさん
1995年に野点の風景を先に思いつきました。公園でリアカーがあって、お茶を飲んで。自分が大学で陶芸を学んでいて、ひとりで見ているのはもったいない、HIV。NGO活動。コミュニティセンターの協働運営。あわせ技。アートプロジェクトが一般化していく中で、まちが囲い込まれることに対する抵抗感が同時に芽生える。

吉田さん
ブレーカー10年。今後続けていくにあたってどういう展望があるのでしょうか。’

雨森さん
最初は社会とアートをつないでいく、まちの中に現場をつくっていくというビジョン。関わってみるとまちの課題が見えてくる。私たちができることは何か。でも毎年どうなるかわからない、来年は予算がなくなるかもしれない。そうやってなんとか続いてきた。そういうこともあって長期ビジョンがつくれない。10年やらないと意味ないですよと言っていたけど、10年では何も変わらないなと感じている。やっぱり30年かな。参加している子どもたちが大きくなっていきますし。

吉田さん
時間のことを聞きたい。ひとつのまちでどれぐらい時間をかけて、やりきれたなという感覚があるのか?

じんじんさん
自分もよくわからない。土地との関係はぜんぜん終わらない。完結をみた土地はない。鳥取は年一回ずつ8年通っていて。屋台部。そういう状態のおつきあい。この2年間。経済に負けることやフィジカルに負けることもある。

西尾さん
愛知トリエンナーレも出展しましたけど、その後をフォローする制度があればいいなと思う。

じんじんさん
制度的にフォローできるんですかね。これも最近語られはじめていることですが、地域の人たちの主体性を誘発することがミッションに入っているときがある。大切なことだけど危険なことだなと思う。

西尾さん
活動の制度でどれだけフォローできるのか。具体的な話として、ドキュメントをつくりたいと思う。そのための出版助成とか、アーカイブ助成とか、最初からプロジェクトに組み込むとか、そこまでのことなら可能なのではないかと思う。



古橋さん
じんじんさんが言うところが面白いきっかけになりそう。まちづくりでは主体性をゴールにしたい。ゴールを教えてくれないと困りますと言われることがある。それは思考が停止しています。頭を使い出すといいなと思うから主体性をゴールに設定したい。しかし、それやばい。

じんじんさん
やばいというか、モダニズム以降の人間にとって主体はとてもすばらしい。しかしそれはいったい誰に判断できるの、と思う。能動的に開くとするのが必ずしもアクトではない。「うわー」と思うのは主体的な時間ではないのか。そう考えるのは、岩手に関わったことがすごく大きい。

念のためですが被災地全般には決して語れないですよ。2011年に岩手の沿岸部におじゃましたことがあります。えらい人が町民主体のまちづくりじゃないと、とさんざん講演して帰るのです。おそらく正しい。でも、個人差があるし、人間そんなにうまくできていないのに意思表明を求められるというのは、とてつもないプレッシャーです。その場にいる方は今も何をするにしても重荷を背負っておられる。そのとき主体性という御見応えのよいテーマに抵抗感を感じました。

古橋さん
僕の理解では、主体的になるというのは、グランドビジョンを語らないといけないわけではなく、・・・・主体的であるということはそんなかっこいいことではなく、相談できるとか、一歩踏み出せるとか。

雨森さん
長者町とぜんぜん違う点は?

吉田さん
トリエンナーレは大きな予算、人数も多い、組織としても県が主体的をもってやっている、自由度はあるようでない。交渉や段取りを三年かけて、そのゴールに向けて進んでいく仕事。トリエンナーレだからできること、いろんな世界中から作家がくると、一回ずつ分断されてしまう。そこが惜しいなと思っていた。展覧会と展覧会の間の年にやっている活動が非常に重要だと感じて「徹子の部屋」みたいなことをやっていました。喫茶店のオーナーや繊維業者の社長だったりをゲストに呼んでお話を聞く。それをアーカイブしていろんなアーティストに見せる。間の年が続かない。毎回スタッフが変わるので、そこが分担されて地続きにならない。それはいろんな限界がある。

まちづくりはまちにポジティブな人が参加する。アートプロジェクトはまちづくりに関わっていない人も見えてくる。ひきこめる、つながって、連動しているからこそできる。

雨森さん
今年も日本全国で芸術祭がたくさんある。アートに期待しすぎじゃないか。その反面、30年ぐらいしたらじんわい効果がでるのでは。そんなに簡単にまちが変わるもんじゃないと、やっている側がちゃんとゆっていかないといけないと思っている。

そういう意味で去年いろいろ芸術祭を見にいった中で、おふたりがされていることはなにかほかと違うなと感じた。普段の日常的な活動があって、まちがつくられていっている。

古橋さん
MATの報告書の中にアートはまちを変えるために存在していません、と言っていることを、まちづくり協議会が受け入れているというのが大事だと思っています。

じんじんさん
そういう関係がなぜ起こったのですか。なにか理由は?

吉田さん
みなとの先っぽに倉庫があって、90年代以降にアートコートとか建築とアートの間のことをやっている人たちとか、いろんな方が関わって5年活動して展示をしていた時期がありました。協議会の78歳のおじいさんですが、アーティストの作品はよくわからないけれど、いろんなものの見方をできることはわかっていると言い切ってくれたんです。まち自体にそういう素地があったことが大きな理由だと思います。

ここまでが僕のメモです。
最初にも書きましたが記憶違いでしたらすみません。
めっちゃメモ程度のところもありますが、どなたかの参考になればと思います。

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