かつて梅田にあった歌声喫茶「こだま」でピアノを弾いていた大北整子さんにお話を聞きました。

大阪市

戦後の梅田では、音楽系の喫茶が増えていった。例えばジャズ喫茶の「バンビ」「チェック」、クラシックを聴かせる「スパニョラ」、カントリー&ウェスタンの「マンハッタン」など、ひとつの文化となっていった。音楽の音色を楽しむだけでなく、自分で歌うという楽しみとして「歌声喫茶」も昭和30年代の梅田で生まれた。現在は肥後橋で歌声喫茶ピープルズを経営する大北整子さんは当時、歌声喫茶「こだま」でピアノを弾いていた。

「あの頃は喫茶店に行くことが贅沢な遊びでした。白馬車、田園、アメリカン、そして特にジャズが好きだったのでバンビにはよく聴きにいきました」。

歌声喫茶ではロシア民謡などが良く歌われていたが、こだまはどちらかというと、青春の流行歌が主流だった。

「当時は地方から出てきた寮住まいの若者が多くて、さびしがり屋の若者たちが友だちづくりのためにきていたと思います。くつろぐ喫茶店というより、社交と遊びの場でした」。

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コーラスブック。昭和36年当時、飲み物は100円、コーラスブックは70円だった。

高校生から20代前半の若い世代が多かった。楽器編成は主にピアノ×アコーディオン×ギター。「歌い手」と呼ばれるリーダーがいて、リーダーの選曲で2、3曲歌ったあと、お客さんからのリクエストで選曲し、全員で歌った。300人は入れる大きなフロアがほぼ満員で、日曜日は人気がありすぎて2時間の入れ替え制だった。平日は16時〜22時半まで営業。学校・仕事帰りの人たちが集まる19時頃からが盛り上がる時間で日曜日は14時〜22時半。15時頃から20時頃までずっと盛り上がっていた。

「仕事の歌、収穫の歌、カチューシャの唄など歌っていました。商店街も、若者たちが特に目的を定めずに、ぶらぶらしにくる場所でしたね」。

スナックがカラオケを置き始めたことにより、残念ながら歌声喫茶は衰退していった。ちなみに「ねぎ焼きやまもと」十三西店オーナーの山本章二さんは、かつて「こだま」で歌い手として活躍していたそうです。

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