昭和56年(1981)には堂山町にライブハウス「梅田バナナホール」が誕生する。関西のインディーズバンドや音楽ファンにとって一種の登竜門として存在し、年間約6万人が訪れる人気ライブハウスだった。
以下、北野地域誌を制作するためにとったインタビュー記事の抜粋です。
1981年、堂山町にライブハウス「梅田バナナホール」が誕生
プロ・アマチュアを問わず、ジャンルもポップ、ロック、ブルース、ジャズ、フォーク、民族音楽と幅広く受け入れ、多くのミュージシャンの通り道、また人気の火付け役にもなった。近年では、お笑いのライブなども行われた。
通常、ライブハウスでは客席とステージの間に安全のための柵が立てられるが、バナナホールでは柵のかわりに樽がいくつか置かれており、バナナホールの名物とも言われた。時にはステージに立つミュージシャンがこの樽の上に乗り、パフォーマンスを繰り広げた。しかし、平成19年(2007)9月17日にバナナホールは閉館し、約26年間の歴史に幕を閉じた。現在、同じ場所にはライブハウスの「umeda AKASO」が建っている。
この「梅田バナナホール」を経営していた高木さんはこう語る。
「昭和56年の30代の頃かな、たまたま遊び友だちに音楽関係者やマスコミ、広告会社の連中が集まってきたんです。兎我野町で貸しビル業もしていたし、堂山町にあったハコでも何かしてみようかなと盛り上がりました。当時、大阪には若いお客さんが小遣い程度で入れる気楽なエンターテイメントの場所がなかったんです。キャバレーはありましたけど高いので若い人は行けないでしょう。ジャズとかロックに特化したものはあったものの、オールマイティなジャンルを扱って、演奏する側が満足できるような装置がなかった。それで本格的な照明と音響装置を用意し、楽屋もつくって、演じるほうが満足できるものをやろうとはじめたんです」。
ちなみに最初のステージはクラリネット奏者。コアなファンが多かった。バナナホールの知名度がなくて最初の1年ぐらい苦労したと語る。
「1年半ぐらいして当時、新人バンドのサザンオールスターズがブッキングされたんですが、偶然テレビ番組の「ザ・ベストテン」のテレビ中継がありました。黒柳徹子さんと久米宏さんが司会の音楽番組です。
「勝手にシンドバッド」が一位になったときに中継することになって、それがきっかけで、大阪に面白いところがあると東京に広がったんです。ほんとに時代が良かった。そうこうしているうちにプロのデビュー戦に良い小屋があるぞ、と『安全地帯』や『チェッカーズ』『徳永英明』『プリンセスプリンセス』など、大阪でプロモーションするための場にしてもらうことができました。ミナミにもビッグキャット、なんばハッチ、心斎橋クアトロとか増えていきました。バンドブームでしたね」。
2007年、バナナホール閉館
順風満帆に見えたバナナホールは平成19年(2007)に閉館した。
「平成に入ったぐらいからかな。音楽業界がシステム化されていったんですよ。メーカーがあって、アーティストの所属事務所があって、イベンターがいて、ライブハウスがあって、という構図の中で、イベンターさんがブッキングをコントロールするようになったんです。ライブハウスは情報をこちらからセレクトして発信していたものが、川下になっていったんです。そのあたりから面白くなくなっていきましたね。だから閉めました」。
2017年4月にバナナホール復活
2017年4月2日加筆/以上の記事は2015年に北野地域誌を制作するためにとったインタビュー記事の抜粋ですが、最近この記事のアクセス数が上昇したわけがわかりました。
バナナホール2017年4月に復活です! おめでとうございます!
バナナホール[公式]大阪梅田堂山のライブハウス
大阪府大阪市北区堂山町1-21 モンテビルB-1
キャパ500人
収容人数500人