数日前に「大阪文化芸術フェス2017はどこらへんが大阪の文化芸術なんやろか?」を書いてfacebookでたくさんの反応やコメントをいただいてから考えたのは「そもそも大阪の文化行政はいつからはじまったのか」ということでした。
そもそも大阪で文化の基盤をつくっていたのは民間でした。江戸時代にさかのぼると淀屋橋、町人学者がつくった懐徳堂、大正時代には中央公会堂が民間の手によってつくられました。
「イケてる時代もあった」と聞きます。そんなわけで、知識があやふやですが、大阪の文化行政について年表をつくってみます。この記事は常に作成中になりそうです。
1970年代以前/大阪の文化はもともと民間が支えてきた
1970年代までは、民間が文化行政に先行してアートの現場をサポートをしていました。1958年は朝日新聞社が日本で初めての本格的なコンサートホール「フェスティバルホール」を開館しました。
この頃、日本全体では交通革命が起こります。1960年に名神高速道路が開通。1964年には東海道新幹線が開通、1970年の大阪万博の直前に、手軽に日本を縦断できる時代に突入しました。ちなみに1970年はジャンボ機が就航します。
大阪は1970年の大阪万博に向けてホテルの建設ラッシュが起こります。大阪の企業は大阪万博終了後に観光客が激減しないよう、目に見えるレガシーを残せるように努力しました。
万博終了後に政府は会場の跡地利用について、文化公園とする基本方針を打出し、その中心施設として従来から要望が高かった「国立民族学博物館」の設置が決定されました。
1973年には大阪府の企画部に文化振興室設置します。全国的には早いそうで、こちらの論文の冒頭には、
文化行政は1973年、大阪府の黒田了一知事が設置した大阪文化振興研究会の政策提言から始まった。
と記載されています。教育と切り離して文化行政が語られるようになったのは1970年代だったんですね。
万博が終わったから盛り上げなあかんで、という空気が生まれたのでしょうか。1978年には阪急ファイブがHEPホールの前身オレンジルームを設立。サントリー文化財団ができたのは1979年。初代理事長は佐治敬三さんです。
1980年代/企業による文化施設が誕生した
1982年、サントリーの佐治さんが旗振り役となって、大阪府、大阪市、関西経済連合会、大阪商工会議所などを中心に財団法人「大阪21世紀協会」が誕生しました。1982年にはザ・シンフォニーホールを朝日放送が創立します。狩野は当時小学一年生。「森田一義アワー 笑っていいとも!」の放送がはじまり、次の年はファミリーコンピュータが発売されました。1984年には国立文楽劇場が開場しました。
ここで大阪を代表する二つの企業の例をあげます。
OMSが誕生。扇町の雑談から「何か」が生まれそうな空気に溢れていた。
1985年、大阪ガスの遊休不動産活用事業として扇町ミュージアムスクエア(OMS)がオープン。扇町通り沿いの神山町に誕生したOMSは小劇場、ミニシアター、雑貨店、カフェレストラン、ギャラリーを備えた複合文化施設であり、関西演劇界の稽古場のような場所でした。劇団☆新感線、南河内万歳一座、リリパット・アーミーなど関西の劇団が大活躍しました。
以前、この界隈の地域誌「北野地域誌」を編集した際にお聞きしたエピソードがあります。
OMS以前では、阪急ファイブのオレンジルームが小劇場のメッカ的存在だった。しかしその勢力図はどんどん扇町に流れていくことになる。オープン2年目からぴあ関西版の編集部が移ってきたこともあり、マスコミ関係者も多くなり、有名タレントもたくさん訪れる場所となった。ガラス張りの空間で外から中が見える環境のため、外からの見物客も多くなった。マスコミからはシースルー現象と呼ばれるようになった。常にいろんな人が出入りしていて、雑談からすぐに「何か」が動き出しそうな空気にあふれていた。平成3年(1991)に「ギルドギャラリー」が新設され、当初ギャラリースペースとして立ち上がった「コロキューム」が常設のミニシアターとして平成4年(1992)にリニューアルされたことで、OMSはその輪郭をいくらかはっきりしたものにしていった。しかし建物の老朽化にともなうビルの解体のために、平成15年(2003)3月に閉館されることとなった。
1985年は阪神タイガースが優勝して道頓堀にカーネルサンダースの人形が投げ込まれた年でもあります。少年ジャンプ誌上では火事場のクソ力を邪悪の神たちに封印されたキン肉マンが、キン肉星王位争奪戦に巻き込まれた頃です。
道頓堀にインスタ映え必至のポストモダン建築誕生
1987年に道頓堀にオープンしたキリンプラザ大阪は、現代美術の発信基地となりました。2017年現在はH&Mがあるあたりです。今も残っていればインスタ映え確実なポストモダン建築でした。写真はこちらの株式会社高松伸建築設計事務所のホームページに掲載されています。
自治体の動き
大阪府/大阪府文化振興ビジョン
1988年。
大阪府/大阪府文化振興財団設立
1989年に大阪センチュリー交響楽団を設立。のちの日本センチュリー交響楽団。
1990年代/「企業メセナ」が広がり、企業がアートと社会について考えはじめた。
1988年あたりから日本はバブル絶頂期。「儲かってきたし社会にもなんか還元せな!」と企業メセナの動きが広がります。大学にはアートマネジメント学科も誕生しました。
芸術文化振興基金が成立
国として芸術活動への助成の体制が確立してきた頃。芸術文化振興基金が成立し、政府からの出資金541億円と民間からの寄付112億円からなり、その運用益によって芸術文化活動を助成していくようになりました。
大阪府/森ノ宮にプラネット・ステーションが誕生
1990年事業開始。のべ400もの演劇団体がこの地で稽古しました。
その後→ 日々嘉綴 総合 : 森ノ宮プラネットステーションの一件で垣間みた指定管理者制度でおこりうる歪み
大阪市/大阪市近代美術館(仮称)建設準備室が設置
1990年。
大阪府/大阪府現代芸術センター(仮)建設計画
1990年、大阪トリエンナーレを開始。2001年に終了。
民間/阿倍野SOHOアートプロジェクト
1993年、阿倍野(大阪市阿倍野区)の街を、新しい芸術文化の発信基地にしようといった動きが立ち上がった。
参照 関西特集 街の活性化にアートを、という願いは……
NPOとアートが新しい文化の担い手となった
1995年1月17日に起きた阪神・淡路大震災を機に、たくさんのNPO団体が誕生。1998年にNPO法制定以降は、アートとNPOが新しい文化の担い手としてアート社会を結びつける活動を展開し、企業メセナとのパートナーシップによる活動も増えていきます。
第三セクター/フェスティバルゲート開業
1997年、大型遊具や娯楽施設と商業施設を合体させた「都市型立体遊園地」として、フェスティバルゲートが開業。
狩野は大学3回生。友だちとの待ち合わせのために動物園前駅で降り、フェスティバルゲートにつながる地上にあがると、50代ぐらいの男性ふたりが殴り合いをしている場面に遭遇しました。大阪はこわいまちやで!と認識した瞬間でした。
世界の主な出来事
1998年長野オリンピックに熱狂。
2001年アメリカ同時多発テロ。
1999年/大阪市/広報誌「C/P(カルチャーポケット)」の発行を開始
1991年の大阪市文化振興施策推進本部の設置以降、現場関係者らを巻き込んだ勉強会が開かれ、1999年にはそれをふまえたいくつかの地域文化事業と、その広報誌「C/P(カルチャーポケット)」の発行を開始されました。
2000年/大阪市/芸術創造館、誕生
2000年1月15日、演劇と音楽をメインとした専用練習場施設として芸術創造館がオープン。
2002年/大阪市/文化施設を「公設民営」する新しい運営方法が生まれた。
大阪市が開始した新世界アーツパーク事業は文化施設の「公設民営」という新しい運営方法でした。
2004年からは大阪市の施設を使って運営された文化施設、精華小劇場が誕生。
詳細 http://www.tottori-artcenter.com/alternative/2006_6/rei4.html
2002年/大阪市/webサイト「log osaka webmagazine」開設
webサイト「log osaka webmagazine」は、新しい大阪を文化という切り口から見つけだすウェブマガジンです。一方的に発行するだけでなく、そこから生まれる様々な企画も行う、新しいメディアです。と記載されています。
2002年/民間/企業メセナの曲がり角。
演劇の元気がなくなる時期です。
・OMSが閉館を発表。
・近鉄劇場、近鉄小劇場が閉館を発表。
小劇場の作り手たちは「大阪のどまんなかに劇場を取り戻す会」という運動を起こした。この流れで2004年から2009年までウルトラマーケットが誕生。
2005年/大阪府/行政とNPOがタッグを組んで、アートプロジェクトを盛り上げた。
小泉純一郎さんが「痛みに耐えてよく頑張った、感動した!」と言っていた2005年。大阪トリエンナーレがなくなり、大阪・アート・カレイドスコープ「do art yourself〜すべての人は表現者」が開催されました。
狩野は当時の公式ガイドブックを残しています。中身の文章の高尚な感じなどを見て、狩野はアートプロジェクトって難しいものだなあ、軽はずみに参加しづらいなという感覚でした。
都市の中でのアート展開
2007年。大阪・アート・カレイドスコープ。「大大阪に会いたい」開催。
2007年度。大阪・アート・カレイドスコープ「大阪時間」(2008年3月開催)。
2008年/大阪府/橋下徹さんが大阪府知事に。
テレビで人気を博した弁護士、橋下さんが政界に進出。政治に無関心だった層も振り向かせるほど過激な発言を続け、大阪の取り組みが良くも悪くもテレビで見る機会が増えました。ちなみに2005年の弁護士時代にインタビューした記事はこちら。
大阪府立の狭山池博物館は、府と大阪狭山市の共同運営にするとの方針が打ち出され、泉北考古資料館は堺市に移管、弥生文化博物館、近つ飛鳥博物館は「外へ開かれた博物館」を存続の条件として変革が行われます。
2009年/大阪府・大阪市・民間/アートと市民参加を軸に、水都大阪2009が生まれた。
まちづくり、建築、都市デザインなどとの協働し、大阪府と大阪市はもっともっと連携しなはれ、という動きが生まれました。水都大阪に関してはこちらの記事を書きました。
こうすれば、”まち”は動き出す!「水都大阪」プロデューサー泉英明さんに聞く「あらゆる人の巻き込み方」 | greenz.jp | ほしい未来は、つくろう。
2010〜2016年/大阪府/屋外空間に突如アート作品が出現。アーティストのアイデアで都市の可能性を拓いた。
2010年から大阪府内各所で開催された、おおさかカンヴァス推進事業がスタート。都市空間を舞台にアーティストの表現をサポートするために、行政が仕組みづくりと環境整備を担うという考えから生まれたそう。とにかくやらねば、という大阪府の思いが先行し、整理されないまま進んでいった話がこちらに詳しく書かれています。
2012年〜/大阪府/アートやデザインを活用し、社会の課題に取り組む。
アートやデザインを活用した社会課題解決の拠点としてenocoがオープン。
2017年/大阪府/大阪文化芸術FES
「大阪文化芸術フェス2017はどこらへんが大阪の文化芸術なんやろか?」
この流れでこのプロジェクトなんですね…。
現在作成途中です。大幅に間違えていることを書いていたら教えてください。
あつかん談話室 9/29金曜夜〈ゲスト〉餘吾康雄さん([NPO recip][NPO remo]) | 大阪アーツカウンシル
参考資料やURL
・アート界の動向、文化行政、企業のメセナ活動をまとめた年表|ネットTAM
・enocoニュースレター 12 2017年1月発行
・芸術は社会を変えるか?: 文化生産の社会学からの接近 (青弓社ライブラリー)
いただいたアドバイス
仕事を片付けてから取り組みますね。
労作に感謝!民間が作って運営している大阪市内のホール、美術館(現存、閉館も含めて)ももう少し含めて記録を残してくだされば。他都市では公立施設がしていることもここでは担ってきました。 https://t.co/WrJJNMFKby
— Megumi Morioka (@MegumiMorioka) 2017年9月23日
私見ですが、大阪府と大阪市の文化行政、に絞るのであればいいのですが、大阪の文化行政は多かれ少なかれ京阪神全体の動きと切り離せないと思います。特に阪神間の文化行政(民間主導の伝統がありますが)と、京都市の動きは大阪の行政に大きく影響していると考えます。 https://t.co/PpdeQTRLoa
— 土居豊 (@urazumi) 2017年9月23日
特にクラシック音楽に限定すると、大阪の音楽文化は阪神間の先行事例の後追いをし続けてきたようにみえます。昭和初期、阪神間のブルジョワ文化とともに築かれた音楽教育の土壌が、戦後にも生きていたのではないかと。関西の音楽文化を支えた財力は、船場と阪神間の富豪層が担ってきたと推察します。 https://t.co/sDXxWfkIZO
— 土居豊 (@urazumi) 2017年9月23日
阪神間文化の歴史はこちらが詳しいです→
『阪神間近代文学論 柔らかい個人主義の系譜』河内厚郎https://t.co/O2z68AKT5L https://t.co/4m8X3I9lIL— 土居豊 (@urazumi) 2017年9月23日