栗原の暮らしの中に当たり前のように存在する長屋門。栗原市内には500軒以上の長屋門が残っており、他の地域ではなかなか目にすることができない貴重な地域資源です。
長屋門は地域の歴史や文化を学ぶ歴史的な建造物群としての価値に加え、居久根(いぐね)と呼ばれる屋敷林に囲まれた母屋、土蔵や板蔵が一体となった農村景観として魅力もあります。
居久根についてわかりやすく書いているページがありました。仙台平野みんなの居久根プロジェクトから引用させていただきます。
この居久根とは、宮城県を中心にした地域の屋敷林の呼称です。「居」=家、「久根」+地境であり屋敷境の意味があります。主として屋敷の北西側に配置されスギ、ケヤキ、ハンノキ、クロマツの四種の高木が居久根の骨格。これらは高さ20m以上に達します。
教えてくださったくりはらツーリズムネットワークの大場寿樹さんは「山をもたない人のためのちいさな山」と表現されていたのが印象でした。
裕福な農家である特徴
長屋門は諸大名の武家屋敷門として発生した門形式で、江戸時代に多く建てられたようです。諸大名は、自分の屋敷の周囲に、家臣などのための長屋を建て住まわせていたが、その一部に門を開いて、一棟とした物が長屋門の始まりです。門の両側に門番や仲間部屋が置かれて、家臣や使用人の住まいに利用されていました。
明治時代以降の仙台藩による支配がなくなった後、農作物や農具を収納する物置や作業小屋としての実用的な機能と、裕福な農家である象徴として栗原にも多くつくられたようです。
そのため栗原市内の長屋門は市内を流れる一迫川水系、二迫川水系沿いの農業に適した場所にたくさん残っています。
ちなみに迫川のおかげで若柳のまちに米が集積されて、石巻に運ばれていたそうです。帰りの舟には刺身や石が運ばれていたとか。この時代から刺身を食べていたとかちょっと信じられない話です。
建造当初の長屋門は、茅葺き屋根・土壁の門がほとんどでした。しかし、戦後になると多くの家では、屋根は瓦や金属板に葺き替え、壁は漆喰で塗り直したと言われています。
門の中では脱穀や精米、養蚕が行われていましたが、農業機械が導入されたことで、門内での農作業は減りました。
カフェやギャラリーへとコンバージョン
現在は、主に物置や作業小屋として使われていますが、壊すと文化までなくなってしまうという考え方が生まれているようで、中には改築を施し、カフェやギャラリー、事務所として利用されている長屋門もあります。
カフェとして利用されている長屋門
ギャラリーとして利用されている長屋門
事務所として利用されている長屋門
くりはらツーリズムネットワークの大場さんは「土で家ができるってすごい」と思って長屋門を修繕するワークショップをくりはら復古創新プロジェクトのパイロット事業として展開されたそうです。こちらのblogにその様子が記されています。
くりはら研究所だよりには狩野家の長屋門が紹介されており、名字が同じなのでさらに気になってきました。